フライ級三羽烏の一人

海老原博幸

日本プロボクシング黄金の時代と言われた1960年代、この時には日本を、そして世界を揺り動かす若き才能が沢山いた。そんな中でも別名『フライ級三羽烏』と呼ばれ、その名に恥じない活躍を見せる三人のプロボクサーのことをご存知でしょうか?その中の一人でもある『海老原博幸』さんについて、次はご紹介していきたいと思います。

彼の人生の転機となったのが、アルバイトをしたかったために訪れたとんかつ屋での出来事だった。その時の店主がいかにも、堅気の人間にはとても見えない風貌を持った店主だったが、実はこの店主こそ後に8人の世界チャンピオンを誕生させることになる『金平正紀』さん本人だった。この二人の運命的ともいえる出会いが引き起こしたことで、二人は方々のジムへ菓子折り片手にジムを借りて練習をするようになり、その後馬小屋を改造したささやかなジムを拠点として活動をはじめることになり、このジムこそ今では最大手のジムである『協栄ボクシングジム』の歴史が幕を引いた瞬間でもあった。

ここで少し面白いエピソードがあり、二人が出会った当初、金平さんは海老原さんに縄跳びやらジャンプ、ジャブを披露しろといわれ、何が何だか分からないまま見せると、その次の日にとんかつ屋を訪れたら店が閉店しており、そこから二人のボクシングの歴史がページを刻むことになった、といわれている。しかし世の中こんなドラマチックな展開は早々無く、どこか誇張した内容として見られており、本当のところは二人が世間話をしたときにきっかけが生まれることになった、とも言われている。本当に前者のような展開だったら、一つの作品にしたらある意味ネタになる展開だろうが、こんなうまい具合の展開は無いといえるかもしれない。

ボクササイズでエクササイズ!

明石の一戸建て・ローコスト住宅専門 | ?LocoHome この十数年の住宅技術の進歩は凄まじい勢いで進んでいます。大震災にともなう安全性の見直しや建築基準法改正などがあったからです。ローコストといえども格段にいい家がてにはいります。

海老原博幸の軌跡

海老原のプロデビューはそれこそ栄光華々しいものではなかった。度重なる拳の骨折によって世界王者として突出した戦績を残すことはできなかったものの、同時期のライバルで親友でもある『ファイティング原田』さんは海老原さんのことを天才と評している。また名王者としても有名な『リカルド・ロペス』も大橋秀行との対談において、海老原さん本人の実力を高く評価しているほど、実力としては世界に引けをとらない人材でもあったことは確かだった。

彼の戦闘スタイルが、その天性のリズムと絶妙のタイミングから放たれる左ストレートは、『カミソリ・パンチ』と恐れられ、その強打を駆使して国内では歴代2位となる33KOを記録した。師匠で数多くの世界王者を育てた金平氏もパンチ力に関しては海老原さんを置いて他にはいないというほど、その力を評価されていた。また精神力も並外れて高く、試合中にたとえ骨折しても終了まで耐えることも多く、後の海老原さんを含む多くの世界王者を育てた名トレーナー『エディ・タウンゼント』氏も『一番ガッツがあったのは海老原だった。海老原は本当の男だ』と語るほど、戦績以上に、選手としての潜在力の高さは世界の名だたる人物達から高評価を受けていた。

しかしそんな彼も計7度の骨折を経験してしまったことで、プロボクサーとして活動していくには致命的な汚点を背負うことになってしまう。しかし彼のすさまじいまでのファイトは留まることを知らず、2度目のタイトルを獲得したホセ・セベリノ戦では試合前に骨折した右拳に打ち込んだ麻酔が試合中に切れてしまった上、途中左拳も痛めたが、激痛をこらえてフルラウンド戦っており、最後の試合であるバーナベ・ビラカンポ戦でも試合中に右拳の骨折と左肩の脱臼を生じてしまうという事態を起こしてしまう。それでも最後まで試合を完遂した海老原さんは、本物のボクサーとしての姿を貫いたと、当時の誰もが感じたことだろう。

引退後は協栄ジムのトレーナーとやテレビ東京の解説者を務めることになるが、過度の飲酒による肝機能障害をわずらってしまったことで、1991年4月20日に51歳という若さで他界してしまうのだった。

ボクサーとしての経歴は他の選手からすれば輝かしいものでもないかもしれないが、彼のボクサーとしての素質は当時でも世界最高と言わせるような、そんな逸材だったことには違いないだろう。

戦績

1959年9月20日 
19歳でプロデビュー。
1960年12月24日 
後楽園ジムナジアムにて原田政彦(笹崎)との東日本フライ級新人王決定戦に挑むものの前半2度のダウンを奪われ、6R判定負け。初黒星を喫した。
1961年1月~1963年11月
29連勝(16KO、1引分挟む)を記録。
1961年4月5日 
当時無敗であった三羽烏のライバル、青木勝利(三鷹)と対戦。2RKO勝ち。
1961年7月28日 
後に日本スーパーバンタム級王者に就く全日本バンタム級新人王、太郎浦一(新和)と対戦。3RKO勝ち。
1962年5月4日 
ローマオリンピックボクシングバンタム級日本代表で、後に2度日本バンタム級王者に就く芳賀勝男(暁)と対戦。10R判定勝ち。
1962年12月31日 
弥栄会館にて後のWBA世界フライ級、WBC世界同級王者で当時OBF東洋フライ級王者であるチャチャイ・ラエムファバー(タイ)と対戦し12R判定勝ち。東洋王座を獲得したが、試合後にチャチャイ陣営が体重オーバーにより2オンスのグローブハンデを付けられた事に抗議し、タイトル獲得は無効となった。
1963年9月18日 
東京体育館にて世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に同級4位として挑戦。自慢の左で2度ダウンを奪い、1RKO勝ちで世界王座を獲得した。海老原の強打に足が痙攣したポーンは、立ち上がることができず10カウントを聞いた。
1964年1月23日 
バンコクのラジャダムナン・スタジアムにて行われた初防衛戦となる前王者ポーン・キングピッチとのリターンマッチ。試合前に拳を痛め手数があまり出ない中、2Rに左ストレートをクリーンヒットさせるが、後半ポーンのジャブを中心とした老練なボクシングに苦しみ10Rには左目をバッティングで負傷。ポーンにペースを握られつつも最後まで堪え、前半ポイントを稼いだ海老原が優勢と思われたが地元判定が災いし、判定負けで王座から陥落した。
1964年4月30日 
ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムにて後のWBC世界フライ級王者アラクラン・トーレス(メキシコ)と対戦。12R判定勝ち。
1965年1月3日 
過去3度戦っているOBF東洋フライ級王者、中村剛(新和)と4度目の対戦。10R判定勝ち。
1965年5月7日 
ロサンゼルスのロサンゼルス・メモリアル・コロシアムにてWBA世界フライ級1位として同級2位のアラクラン・トーレスと世界王座挑戦権をかけて再戦。1R早々ダウンを奪いペースを掴み、7Rには左ストレートから連打を浴びせ再びダウンを奪う。トーレスが立ちあがった所に追撃し3度目のダウンを奪い、7RTKO勝ち。
1966年7月15日 
ブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムにてWBA世界フライ級王者オラシオ・アカバリョ(アルゼンチン)に同級1位として挑戦するも試合前に痛めた左拳を4Rに骨折し右手のみで追いかけ回したが、及ばず15R判定負け。
1967年4月10日 
後の日本フライ級王者であるスピーディ早瀬(中村)と対戦。10R判定勝ち。
1967年8月12日 
世界王座挑戦が決定していた田辺清(田辺)が網膜剥離にて引退、ピンチヒッターとして再びオラシオ・アカバリョの世界王座に同級3位としてブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムにて挑戦。序盤はリードするものの、6Rに左拳を再び骨折、後半アカバリョの反撃に見舞われ、またも15R判定負け。
1969年3月30日 
札幌中島スポーツセンターにてWBA世界フライ級2位として同級1位ホセ・セベリノ(ブラジル)と空位となっていたWBA世界フライ級王座を賭けて対戦。試合前、痛めた右拳に麻酔を打ち試合に臨むが3Rに切れてしまった上、9Rには左拳も痛めるが、序盤と終盤に自慢の左を決めるなど最後まで攻め続け大差の15R判定勝ち。再度世界王座を獲得した。
1969年10月19日 
大阪府立体育会館にて同級2位のバーナベ・ビラカンポ(フィリピン)との初防衛戦。序盤は優勢ながら3Rに公開スパーリングで負傷していた左肩を痛め、右手一本で戦い続けるも10R以降はダウン寸前に陥るほど一方的に攻められ、15R判定負け。またも初防衛に失敗した。なお、試合後に右拳も骨折していた事が判明した。この試合は当時トレーナーであったエディ・タウンゼントが「タオルを投げる事も考えたが、海老原が拒み続けたので投げられなかった。僕の中で観ていて一番辛い試合だった」と後に語っている。
1970年1月 
引退。

大好き!格闘技観戦!