最年少記録を更新したチャンピオン

井岡弘樹

1969年1月8日、この日一人の少年が生を受ける日でもあった。当時ボクシングも隆盛を誇っていた時代の中誕生したのは『井岡弘樹』さん、彼だ。彼のことを取り上げたのは、彼が保有しているある記録のためだ。その記録とは日本人として、最年少で世界ミニマム級王者に輝いた日本人として未だに誰にも破られていない最年少記録を保持しているためだ。

スポーツの世界においては戦績は塗り替えるために存在しているもの、と個人的には考えている。その戦績を長年塗り替えることが出来ないということは、それだけその記録を樹立した選手が、どれだけ偉大な功績をのことしたことになるのかを証明する材料としては十分すぎる素材だろう。

そんな井岡選手について、彼の経歴を見ていこう。

経歴

少年時代はボクシングとは違って、野球少年と呼ばれるほど野球に興じていた少年時代を送っており、当時の南海ホークス友の会の会員としても名を連ねていた。その後中学2年で赤井秀和に憧れて、彼の所属している三ツ和ツダジムに入門をする。この入門当初から、その能力を会長から見出されており、将来のチャンピオンになるとして期待されるようになり、多くの世界王者を輩出した名伯楽、エディ・タウンゼントの指導を享受することになった。エディがデビュー前の少年の指導を任されること事態が異例のことだったが、井岡は会長の期待通りの成長を遂げることになり、当時の日本チャンピオンや世界ランカークラスのボクサーさえも圧倒する実力を身につけるようになった。

義務教育終了と共に三ツ和ツダジムで合宿を行い、17歳でプロデビューを果たす。関西出身の選手としては異例の、後楽園ホールでのデビュー戦を行なうことになるが、井岡は完璧なまでの鮮やかなKO勝利を収め、これ以降連勝街道を走るように白星を積み上げていくことになる。

その恵まれた体格を生かしたアウトボクシングに、軽量級らしい伸びのある左ジャブ・右ストレートを武器にして、わずか18歳で世界ミニマム級初代王者として世界一に君臨することになった。またWBA世界ライトフライ級王座も獲得し、2階級制覇を達成することに成功する。制覇直後に国際ボクシングスポーツジム入門が決まりかけていた函館市在住のライトフライ級アマチュアボクサー『山口圭司』をグリーンツダへと導いた。

しかし井岡にも苦手な選手は存在しており、特にサウスポースタイルの対戦相手に関しては相当に手を焼いたとのこと。そういったこともあり世界戦以外でのマッチメイクではサウスポーの選手を避けていた、とも言われているが詳細は定かではない。

その後2002年には兄である井岡一法と共に井岡ボクシングジムを設立して、初代会長を務める。

本人の意向から、どうしても学業を修めたいとの願いから高校へと進学して2007年に高校を無事卒業して、その後大阪経済大学に進学し、現在も在学中であると思われる。

2013年には西日本ボクシング協会会長選挙で当選を果たして、任期3年で会長職に就任することになる。また同年には井岡ジムの会長職を兄に譲渡すると、自身の『井岡弘樹ジム』を設立して会長に就任することになる。

ボクササイズでエクササイズ!

井岡伝説

ボクシング井岡選手にはいくつかの伝説が存在している。それこそ本当にそうなのかな?と疑ってしまうような伝説もあるといわれています。そんな彼の伝説について一つずつ見ていくことにしましょう。

自宅の冷蔵庫には、ローマ教皇から渡された電話番号が書かれた紙が貼ってある。

ボクシングの英雄だからこそ、可能な話かもしれませんね。ローマ教皇から電話番号を渡されたとのことですが、電話で何を話すんでしょうね。非常に気になりますが、そもそもカトリック教の最高聖職者からの電話番号の授与となれば、信者でなくてもありがたみがあって、神のご加護がありますように、なんて恩恵を受けそうで興味ありそうですね。

また現在放送中の『人生が変わる1分間の深イイ話』に出演した際には井岡本人の珍妙な行動も明らかにされている。

井岡が乗ったタクシーには、その証しとして井岡シールが貼られる。また、訪れた飲食店にも貼られている。そしてクリントン元大統領に招待されたホワイトハウスにも貼ってきたことがある。理由は「誰もしてないから貼った」とのこと。

井岡シール(千両札)は年間24万枚タクシーや飲食店に貼る。

清原和博がゲスト出演した時に「僕が2000本安打打った記念に、井岡がサイン入りグローブを僕にプレゼントしたが、一度も会ったことが無い」と証言している。

薬師寺保栄の話では「タクシーにシールを貼るだけでなく、一人で乗車するときには助手席に座って勝手に運転手の水筒のお茶を飲んで弁当を食べる」と証言している。

羽鳥慎一アナが「天然キャラでもボクシングに関してはちゃんと話すんですね」と言われ「失礼な発言だ」と激怒したが、紳助から「お前は言える立場じゃないだろ」と言い返された。

・・・・・・もはや突っ込みどころが多すぎて何処から突けば良いのか分かりませんが、とりあえず分かったこととしては、本人が非常にお茶目な人だ、ということですね。まぁその加減も天然で片付けられれば良いですが、度が過ぎるとはた迷惑な行動でしかないでしょうね。

薬師寺保栄によれば、新幹線のホームで高校生から(お笑い芸人の)ヒロシと間違われマジ切れしたことがあるらしい。

これはもう、似ているということを加味したら諦めるしかないと思いますが、さすがにプロの格闘家が一介の高校生に対してマヂギレしてしてしまっては、傍観者からすれば高校生に対して脅迫行為を諮っている危ない人に見られてしまうでしょうね。警察を呼ばれなかっただけマシなのではないでしょうか。」

今でも赤井英和への憧れは続いているらしく、ごきブラの番組内で同じような企画をやりたがったり、大平サブローによれば、赤井がCMをやっていたアリさんマークの引越社のトラックを道で見つけると、「アリさんマークがんばれー」と声を上げるらしい。

崇拝は時に度を越して、強烈な信奉心を生み出しますといいますが、その典型的な一例でしょう。ここまで来ると宗教的な行動を取っている、怪しい人になってきます。

ごきブラのロケで雷が鳴っていて怖くなりスタッフがロケ現場の井岡ジムまで来ているのにロケを中止にさせた。またトランポリンに挑戦するのが怖くて事前にスタッフに内緒でトランポリンの施設まで勝手にロケ中止の電話入れた。

子供というか、雷が怖くて一つの仕事をつぶすことが出来たり、トランポリンに挑戦するのが怖いからと言って内緒で施設に中止の連絡をするというのも、我侭加減はチャンピオンということで許されていそうですね。

はい、ここまで見ると栄華の道を歩んでいる井岡さんですが、一般的な味方すればただの変人、という見解になってしまいそうですね。まぁ逆転の発想で考えれば、そういった常人とは違った志向を持っているからこそ、人とは違うことをしていると考えれば理解できなくもないです。しかし社会的な立場からすれば、こんな人は単純に迷惑極まりない人でしかないでしょうね。私も個人的に係わり合いを持ちたいとは思いたくありません。

そんなこんなで、格闘技としても、一個人としても色んな意味で頂点に立っているような人である、ということが分かりました。

経歴

1986年1月23日 
17歳の誕生日を待ってプロデビューし、3回KOで勝利。
1987年7月8日 
小野健治を下し、日本ミニマム級王座獲得。これは日本プロボクシング史上最年少記録。
1987年10月18日 
9戦目にして世界初挑戦。WBC世界ミニマム級の初代王座決定戦に出場。マイ・トンブリフラム(タイ)を12回判定に降し、国内最年少新記録となる18歳9か月10日で世界王座獲得。また、日本のジムに所属する選手の9戦目での世界王座獲得は、具志堅用高と並ぶ国内最短記録(当時=現在は甥・井岡一翔の7戦目)。
1988年1月31日 
初防衛戦。元IBF同級王者にしてWBC1位の指名挑戦者、李敬淵(韓国)に12回TKO勝ち。この試合が井岡の世界戦唯一のKO勝ち。病床の恩師エディ・タウンゼントに捧げる勝利で、この翌日にエディは死去。
1988年6月5日 
2度目の防衛戦。ナパ・キャットワンチャイ(タイ)と対戦し、引き分けで辛くも防衛成功。最終12回、挑戦者の強打でダウン寸前にまで追い込まれるも、終了のゴングが30秒早く鳴らされた疑惑の試合となった。
1988年11月13日 
3度目の防衛戦。ナパと再戦し、12回判定負け。王座から陥落した。
1989年6月10日 
世界再挑戦。ナパと三たび対戦したが、11回TKO負けで王座返り咲きならず。その後、村田英次郎の指導を受ける。
1991年12月17日 
WBA世界ライトフライ級王者柳明佑(韓国)に挑戦。17度防衛中の絶対王者をアウトボクシングで攻略。圧倒的不利の予想を覆し、12回判定勝ち。日本人3人目の世界2階級制覇達成。
1992年3月31日 
初防衛戦。ノエル・ツニャカオ(フィリピン、マルコム・ツニャカオの兄)と対戦し、12回判定勝ち。
1992年6月15日 
2度目の防衛戦。元WBAミニマム級王者金奉準(韓国)と対戦し、12回判定勝ち。
1992年11月18日 
3度目の防衛戦で前王者・柳と再戦したが、12回判定負けで王座陥落。
1993年6月23日 
日本人初の3階級制覇を目指し、フライ級で世界挑戦。WBA世界同級王者デビッド・グリマン(ベネズエラ)に挑むも、8回TKO負け。3階級制覇達成ならず。
1995年10月17日 
WBA世界フライ級王座に再挑戦。前年にグリマンを降して王者となったセーン・ソー・プルンチット(タイ)に挑むも10回TKO負け。またも3階級制覇は達成されず、その後、一時的にマック・クリハラの指導を受ける。
1997年2月25日 
WBA世界フライ級王座に三たび挑戦。前年にセーンを降して王者となったホセ・ボニージャ(ベネズエラ)に挑むが、7回TKO負けでまたしても3階級制覇達成はならなかった。その後、フライ級での世界王座奪取を断念し、スーパーフライ級に転向。
1998年4月29日 
WBA世界スーパーフライ級王者飯田覚士に挑戦。フルラウンドにわたり一進一退の攻防を展開するも、12回判定負け。
1998年12月19日 
かつてのジムメイトでもある徳山昌守とノンタイトル戦を行い、5回TKO負け。世界戦以外の試合で初の敗戦を喫した。この試合後、控え室で所属ジムの津田博明会長と報道陣をシャットアウトして30分間の話し合いを持ち、井岡は引退を決意。津田会長曰く「井岡とは、普通の試合(=世界戦以外の試合)に一度でも負けたら引退すると決めていた」。

大好き!格闘技観戦!