日本人初世界王者

白井義男

日本にもボクシングという格闘技が流れてから、積極的に参加するようになったが、日本人が世界に挑戦してタイトルを取得するまでには時間はかかった。元々小柄な日本人からすれば、大柄で巨体の外国人から繰り出されるパンチの重さに耐えられる選手は中々現れなかっただろう。

そんな中、日本人選手として世界王者に輝き、後に日本ボクシング黄金の時代とも言える道しるべを作った人を知っていますか?日本ボクシング界の選手を語るにあたって、彼の名前をはずすことは出来ない、日本人として初めて世界王者に輝いた『白井義男』さんを紹介しなければ何も始まらない。

経歴

1923年11月23日に、現在の東京都荒川区で生を受ける。彼がボクシングに目覚めたきっかけになったのは小学6年生の時だった。夜祭りの時に余興で行なったカンガルーとのボクシングに負けて、それからボクシングという競技にはまっていったという。カンガルーに負けてボクシングにのめりこむ、というのは何となくシュールな理由ではないだろうか。そもそもどこからカンガルーを連れ出して、しかもカンガルーとボクシング対決をする小学生とは一体どういう図式だろうか。丁度このころは世界情勢も不安定な時期であるはずなのだが、なんだか少し拍子抜けを思わせるようなきっかけでボクシングを目指すことになったようですね。

彼がプロデビューしたのは戦時下の1943年の頃、8戦全勝の成績を残すが、徴兵制で収集されて海軍に従軍となり、整備士として終戦を向かえることになるのだった。もしもこの時身体に何かしらのダメージを負っていたら、彼がボクシング世界王者になることは無かったので、歴史は彼の人生に味方したということだろう。

しかしボクシング界への復帰を果たしたものの海軍への特攻機を整備した際の労災によって腰痛となってしまい、引退寸前の危機に追い込まれてしまう。しかしその頃ジムに出入りしていたGHQ職員の生物学者『アルビン・R・カーン』に見出され、彼の全面的な支援の元にその素質を開花させていくことになった。この頃から外国人からその才能を認められるほど、彼のボクシングとしての技術は世界で競えるものだったということだろう。

それからはカーンの指導の下で、栄養豊かな食事を取ることもできて健康管理を徹底することが出来、長い手足と抜群の運動神経を生かした防御主体のよりテクニカルなスタイルに矯正したことで彼のボクシングは息を吹き返すように進化していき、1952年にダド・マリノとの世界タイトルマッチに勝利して王座を獲得するのだった。その後4度の防衛を果たす功績を残し、世界大戦敗戦に打ちひしがれていた日本人にとって、世界と対等に渡り合っている彼の王者獲得とその後の防衛線での活躍は、当時の日本人からは『希望の光』として見られていた。最もこうした歴史を踏めるようになったのは、GHQ職員に見いだされ、彼の指導の下、当時の食糧不足を気にすることなく健康状態を良好に保てたことが何よりだったに違いない。

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戦績

1943年11月26日 
プロデビュー。デビュー以来8戦全勝の成績を残す。
1944年 
海軍に召集。
1945年 
復員。
1946年8月 
現役復帰戦となるノンタイトル6回戦に判定勝ち。
1948年7月30日 
石森信之に2回KO勝ち。カーンと組んでから初試合・初勝利を果たした。
1949年1月28日 
日本フライ級王座に挑戦。花田陽一郎に5回KO勝ちし王座獲得。以後3度防衛を果たした。
1949年12月15日 
日本バンタム級王座に挑戦。堀口宏に10回判定勝ちし王座獲得。フライ級と合わせ2王座を同時保有。以後2度防衛を果たした。
1951年5月21日 
ノンタイトル10回戦で現役世界王者ダド・マリノに判定負け。
1951年12月4日 
ノンタイトル10回戦でダド・マリノに今度は7回TKO勝ち。
1952年5月19日 
世界フライ級王座に挑戦。ここまで1勝1敗の王者マリノに15回判定勝ちし王座獲得。以後4度防衛を果たした。
1952年11月15日 
世界王座初防衛戦でマリノとの4度目の対戦となったが15回判定勝ちし決着をつける。
1954年11月26日 
パスカル・ペレス(アルゼンチン)に15回判定負けし王座陥落。
1955年5月30日 
世界王座再挑戦。ペレスとのリターンマッチに5回KOで敗れ、現役引退。なお、この試合の中継は最高視聴率96.1%を記録した。この数字は、2009年4月現在のテレビ放送視聴率の中で最高である。

その後

白井氏とサポートのカーンとの関係については、選手とコーチとしての範囲にとどまることはなく、それは公私共に良きパートナーとして、『家族』としての関係を築いていた。白井氏が引退してもその関係は変わることはなく、彼の引退後も日本に永住することになった恩師のカーンとの関係は、彼らの最後の瞬間まで継続することになる。

カーンの晩年は認知症になるものの、逝去するまで白井夫婦の厚い介護を受け、そんな二人の感謝を込めて、彼の戸籍上での家族は存在しなかったために、白井夫婦に財産を全て譲った。

また白井氏はカーンの「ボクシングビジネスに手を出してはいけない」という忠告をきちんと守るほど、彼に対する敬愛も忘れないようにしていた。1995年には具志堅用高と共に白井・具志堅スポーツジムを設立し、同ジムの名誉会長に就任したものの出資のみでの提供をしていた。

その後2003年12月26日に、肺炎のために死去、80年の人生に幕を閉じるのであった。

世界を制し、その後の人生においても生涯における最も信頼できる友人として過ごすことになった白井義男とアルビン・R・カーンの二人は、ボクシングという世界だけに留まらず、様々な世界での意味で最も理想的な関係を築いていたのだろうと感じる。白井氏が世界王者につけたのも、そしてその後の人生においても彼が納得した生き様を貫けたのはカーンという支えがあってこそのもの、そしてカーンも生涯独り身で過ごすことになるが、白井氏とその妻と血縁関係こそないものの、家族として交流できたことにより、孤独の中での死を迎えることなく穏やかな最期を迎えられたに違いない。きっとこの先も二人は唯一無二のパートナーとして過ごしていくことになるだろう。

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