精密機械と呼ばれた王者

沼田義明

ボクシングにおいても技の技術力はここぞという時の戦局においては重要になってくる。そんな日本ボクシング界においてその高い技術力を評されて『精密機械』という異名を与えられた男『沼田義明』さん、彼を最後にご紹介しよう。

北海道出身の彼は、旅館の跡取り息子という人生においても勝ち組的部類に含まれていたにも関わらず、彼はそんな用意されていた道には進まずにボクシングの道を歩むことになった。そんな沼田さんのエピソードは、あれを取り上げる以外に他はない。

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逆転KO勝ち

沼田さんの歴史を紐解くにはこの1970年9月27日、アメリカで行なわれた『ラウル・ロハス』との2度目の初防衛戦のことだろう。当時はギャングとして少年時代を過ごしてたロハスは、西城正三氏にWBA世界フェザー級王座を明け渡したあとは、落ち目のボクサーとなっていたが、豪快な強打は廃ることは無く、2階級制覇をかけて沼田さんに挑んだ一線でもあるほど、決して実力は劣っていない選手だった。

試合序盤、ロハスが試合のペースを持っていき、沼田さんを追い込んでいってダウンを奪う。何とか立ちあがって再戦に応じるも、その強烈な攻撃の前に中々反撃の糸口を見出すことは出来なかった。かろうじてゴングに逃げ込んだが、このままでは沼田さんのKO負けは時間の問題と見られていた。この時ロハスも勝ったと思っていたに違いない。続く5回も、沼田さんはロープ際でロハスからの連打に耐えていたが、ここから沼田さんに勝機が生まれ、そして華麗なまでの大逆転劇が幕を上げるのだった。

一方的に打ち続けていたロハスだったが、その疲れから連打を止めてしまい、その隙を突いた沼田さんが逆にパンチの雨を降らし始めた。その仕返しとばかりにロハスが沼田さんをコーナーに釘付けにして滅多打ちを食らわしたが沼田さんは倒れなかった。そしてやめてはいけない打ち合いの中、ロハスはまたしても手を止めてしまい、これを気に沼田さんは反撃に応じるのだった。ロハスは疲れから応戦することが出来ず、リング中央で逆に沼田の強烈な右アッパーを顎にまともに受けて顔面から前のめりでキャンバスに崩れ落ちてしまう。このままでは負けてしまう、ロハスは気力を絞って何とか体を起こすも、そのまま後ろに倒れこんでしまい、10カウントを聞くことになってしまった。

絵に描いた様な大逆転劇は日本ボクシング史に残る名場面の一つとして刻まれることになり、沼田さんは試合について『打たれながらロハスのガードが空くのを見ていた』と語っていた。当時のフィルムからも、沼田さんがロープに釘付けにされながらも、致命的となる一撃は受けていなかったことも大きく、冷静にロハスに動きをじっと観察して、反撃の機会を伺っていたことが分かったといわれている。このように危機的状況においても、冷静に試合の状況を観察して、一瞬の正気を逃さなかった試合巧者ぶりから『精密機械』としての異名は伊達ではないということが証明された。

その後

一時期はヨネクラボクシングジムトレーナー及び、テレビ朝日『エキサイトボクシング』の解説者として知られるようになり、清瀬市でボクシングジム開設後も引続き解説者として活躍し、同郷の山口圭司が有永政幸にKOで敗北したときも担当していた。

主な戦績

1962年 
プロデビュー。
1965年4月 
東洋ジュニアライト級(現スーパーフェザー級)王座獲得。以後2度防衛。
1965年5月 
ノンタイトル12回戦に判定で勝利、デビュー以来25連勝を達成。
1966年6月 
東洋ライト級王座に挑戦。当時世界ジュニアライト級王座も保持していた強豪フラッシュ・エロルデ(フィリピン)に12回判定勝ち。ジュニアライト級を含め東洋2冠。
1967年6月15日 
WBA・WBC世界ジュニアライト級王座に初挑戦。前年東洋王座を奪ったエロルデを15回判定で破り王座獲得。
1967年12月14日 
小林弘との初防衛戦。史上初の日本人同士の世界タイトルマッチとして行われたこの試合は、熱戦の末小林の右クロスを浴び12回KO負け。王座陥落。この試合のオプションをめぐり極東プロと小林サイドの帝拳プロモーションが民事訴訟沙汰に
1969年10月 
WBA・WBC世界ライト級王座挑戦。マンド・ラモスに6回KOで敗れる。
1970年4月5日 
WBC世界ジュニアライト級王座挑戦。レネ・バリエントス(フィリピン)を15回判定に降し2度目の王座獲得。以後3度防衛。
1971年10月10日 
WBC世界王座4度目の防衛戦。リカルド・アルレドンド(メキシコ)に10回KOで敗れ王座陥落。
1972年3月2日 

ノンタイトル戦に3回KOで敗れ引退。

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