WBC世界スーパーバンタム級を制した男

ロイヤル小林

ボクサーのほとんどが10代からデビューしている中で、珍しい大学卒業してからプロデビューを果たして、後の世界バンダム級チャンピオンにまで輝くことになった『ロイヤル小林』の紹介も忘れてはいけない。彼は拓殖大学を卒業後、自衛隊体育学校でボクシングを始め、アマチュア選手としてトップ選手としてミュンヘンオリンピックへの出場を果たし、ベスト8という好成績を残すのであった。アマでは通算34勝3敗を記録し、KO率は8割2分という記録を引っ下げてプロボクシング界に殴りこみ同然で飛び込んでいった。

国際ジムからプロデビュー後もKO率を高めていき、『KO仕掛人』の異名を持つようになった屈指のハードパンチャーとして活躍することになる。

その後WBC世界ジュニアフェザー級王者に君臨し、大卒ボクサーとしては日本人初の快挙を収めることになった。その一方でアレクシス・アルゲリョ、ウイルフレド・ゴメス、エウセビオ・ペドロサなど、当時最強を謳われた世界王者を日本に招聘世界王座に挑戦した試合のほうがボクシングファンにとって印象を残したボクサーでも会った。

また、その戦い方や立ち振る舞いからアマチュア出身でありながら『プロ以上にプロらしい』と称され、『正々堂々、スポーツマンシップは夢物語・勝つために何でもするのがプロ』と語るなど、勝負にこだわる『プロ』であったとも言われている。

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主な戦績

1972年 
ミュンヘンオリンピック・ボクシングフェザー級でベスト8。
1973年2月15日 
プロデビュー戦でバロン熊沢(大川)に8回判定勝ち。小林はアマチュア時代の実績から、特例で8回戦以上に出場できるA級ライセンスを交付され、8回戦でのデビューとなった。
1973年4月27日 
デビュー2戦目で佐藤弘道(堀内)に2回KO勝ち。
1974年6月9日 
元世界バンタム級1位、「ロープ際の魔術師」とも呼ばれた名ボクサー、ジョー・メデル(メキシコ)に6回TKO勝ち。ただ、メデルも全盛期のカウンターの冴えをのぞかせ、一時は小林から左のカウンターでダウン(判定はスリップ)を奪った。試合後、36歳のメデルはリング上で引退を表明、引退のテンカウントのゴングを聞いた。
1974年9月5日 
原田達(新進・現新日本大阪ジム)に4回KO勝ち(相手の原田は、後のOPBF東洋太平洋ジュニアライト級王者、吹打竜)。デビュー2戦目からの11連続KO勝ちを達成。当時の人気時代劇にあやかり「KO仕掛人」と呼ばれる。
1974年9月16日 
世界ランカーのバート・ナバラタン(フィリピン)と対戦、10回判定勝ち。連続KO勝ちの記録は途絶えたものの、世界ランキング入りを決めた。
1974年12月30日 
日本フェザー級2位、竹森三城(三迫)と対戦、強打者同士の激しい打ち合いとなったが、パンチ力に勝る小林が打ち勝ち、2回KO勝ち。相手の竹森はこの3か月後、メキシコ遠征で世界フェザー級8位、サルバドール・トーレス(メキシコ)に2回KO勝ちして、世界ランキング入りしている。
1975年2月17日 
後の世界フェザー級王者、ダニー・ロペス(アメリカ)からダウンを奪ったこともある強打者、豊島正直(川口)と対戦。強打者同士の緊迫した試合となったが、6回に一気のラッシュでKO勝ち。
1975年5月9日 
国内のライバルと目されていた、前OBF東洋フェザー級王者歌川善介(勝又)に2回KO勝ち。2回に左フックの一撃で倒した。敗れた歌川は、試合後リング上で引退を表明した。
1975年10月12日 
18戦全勝(16KO)の戦績を引っさげ、東京・蔵前国技館にてWBA世界フェザー級王座に初挑戦。1回から王者アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)の速い左ジャブに苦戦するものの、4回には左フックを顔面に決め、守勢に立たせるなど善戦した。しかし、5回に勝負に出たアルゲリョの右をボディに受けダウン。辛くも立ち上がったところを今度は左をボディに受けてKO負け。
1976年2月15日 
初の海外遠征。パナマで地元のエミリオ・サルセドと対戦、2度のダウンを奪うも、地元判定で10回判定負け。
1976年10月9日 
東京・蔵前国技館にてWBC世界ジュニアフェザー級王座に挑戦。王者、リゴベルト・リアスコ(パナマ)に8回KO勝ちし王座獲得。オリンピック日本代表経験者として初の世界王座奪取となった。当時、日本のボクシング界は同年5月に輪島功一が敗れてタイトルを失って以来11年ぶりに世界王者無しとなっており、小林の勝利がその状態にピリオドを打った。また、翌10日には具志堅用高が連日の世界奪取に成功している。
1976年11月24日 
WBC世界王座の初防衛戦。韓国・ソウルで同級1位廉東均(韓国)に15回判定で敗れ王座陥落し、世界王座在位47日の短命王者に終わる。この試合では、1回に小林が足を滑らせて転倒したところに、廉の左が軽く当たっていたためダウンと判定され、その失点が最後まで響いた。
1978年1月19日 
福岡県・北九州市立総合体育館にて廉からウイルフレド・ゴメス(プエルトリコ)にホルダーが移動していたWBC世界ジュニアフェザー級王座に再挑戦。王者ゴメスに1回、2回と攻勢をかけるものの、3回、アゴにゴメスの左フックのカウンターを鮮やかに決められ、KO負け。
1978年4月27日 
OPBF東洋太平洋フェザー級王座に挑戦。黄福寿(韓国)を10回KOで降し王座獲得。以後7度防衛。
1978年8月6日 
日本王者スパイダー根本(草加有沢)相手にOPBF王座の初防衛戦を行い、老獪な根本に苦戦するものの12回判定勝ち。
1979年1月9日 
東京・後楽園ホールにてWBA世界フェザー級王座に挑戦。王者エウセビオ・ペドロサ(パナマ)に13回KO負け。
1979年7月26日 
友成光(新日本木村)に10回判定負け。小林が日本人選手に敗れた唯一の試合である。
1981年10月18日 
OPBF王座8度目の防衛戦で、黄正漢(韓国)に1回KOで敗れ、現役引退。

現在から見る小林の功績

KO仕掛けという異名を付けられていた小林だが、そんな彼の功績については実はそこまで高い評価が得られているわけではない。事実、彼が当時KO勝ちした世界戦では1章しか飾れなかった。確かに彼のデビュー当時こそ、KO勝ちを連発してその通り名にふさわしい活躍を見せていたが、1975年10月に開催されたWBAフェザー級王者の『アレクシス・アルゲリョ』との対戦の時には、彼のスピード感溢れる攻撃に翻弄されてしまい、4R終盤に左フックがヒットしてチャンスを作り出すことに成功するも、5Rに左フックのボディブローを受けてKO負けしてしまうという完敗を喫してしまうのだった。そんな彼の再起戦こそ当時Jフェザー級タイトル王者『リゴネルト・リアスコ』』を8RでKOして、その当時に輪島功一が敗れて日本人王者がいない空白期間をストップさせたという功績をも残しているので、彼の実力は本物だったことは疑いの余地は無い。

しかしそんな功績もむなしく、彼の活躍はそこから一転して栄光とは程遠い道を歩むことになり、KO仕掛け人が、逆に相手に仕掛けるタイミングを作ってしまうような試合内容になってしまっていた。その後WBA王者の『エウセビオ・ペドロサ』との戦いにおいても、リードを奪うことが出来ないまま、この試合を最後に世界の舞台から身を引くことになってしまうのだった。こうした彼の戦績についてあまり好印象を持たせるような評価を下していないものもいるが、誰もがそんな低評価を下しているというわけではない。中には彼の負け方について、勝敗にこだわるのではなく、試合内容こそ、彼の本当の進化を感じさせる、と考えている者もいる。

ところが現実問題として考えた場合に、やはりどうしても試合の内容にも重点こそ見られるが、試合に勝つことが出来なければ無意味だと考えている人もいるのはしょうがないこと。そんな人たちからすれば、小林の戦ってきた軌跡については否定的な見解を示してしまうかもしれないが、彼のたたかい方に憧れや尊敬を抱く、という声も少なからず存在している。確かに彼の試合結果が振るわなかったということは事実として残ってしまうものの、彼の当時の試合を存じている人からすれば、試合内容を高く評価していることに違いない。

それでも小林は凄かった

小林の凄さというものは試合内容に留まることではない、彼が出場するときに海外で出向いたとき、その時は冬の季節だった。当然だが、格闘家が試合前に体を冷やすようなことをしては筋肉が萎縮してしまい、試合中に全力で力を振るうことが出来ないので控え室から既にコンディションは常に高いところを保たなければならない。しかしどうしても遠征などで他国などに赴いて試合をするとき、冷遇を受けることがあるのも事実だ。小林の場合では、傍観はしっかりしなければいけない控え室に暖房が備えられていないといったあるまじき待遇を受けることになったという。それでは試合時には体が温まっていない状態で試合をしなければいけないので、相手とのことを考えたら非常に不利になる。おまけに試合前として長時間そんな環境に放置されていたということならば、明らかに試合を不利にすることを目的とした悪質行為としてみなして良いに違いない。今でこそそれなりに軽減されて入るが、やはり何処までいっても敵に関しては常に風当たりが強いもの、現在の世界大会においても試合とは関係ないところまで嫌がらせに近い行為を受けているのを経験している人も多いと聞く。子林も当時はそんな一人であったが、それでも風当たりに負けることなく彼は奮闘を繰り返していた。

試合というものは実力もそうだが、時には天からの計らいを思わせるような、運というものが作用するときもある。その運をつかみとることが出来るかどうかで、その人の今後を決めることになるといっても過言ではないスポーツの世界において、小林は残念ながら運が無かったほう見られてしまう。それでも彼の残した試合の数々は今でも多くのファンを虜にしているのは紛れもない事実。昔はそれほどボクシングが好きじゃなかった人、最近ボクシングを好きになった人などにおいては、小林のボクシングスタイルを見て当時の彼の強さが本物だったということを認識したら、今よりもっと広い価値観がもてるに違いないだろう。

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