世界二階級を初めて制した男

ファイティング原田

『フライ級三羽烏』にして、日本人としては始めて世界二階級を制したことで名を馳せ、第10代日本プロボクシング協会の会長で現在は同顧問を務め、プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問も担当している日本屈指の実力ボクサー『ファイティング原田』さんをご紹介しましょう。

日本人にとっても、世界にとってもその功績を称えられ、さらその実力は本物のであるといわれた原田さんの歴史というのはどんなものなのでしょうか、見て行きましょう。

19歳で王座奪取

原田さんが初めて王者を奪取したのは1962年10月10日、19歳の時にだった。世界フライ級王者で『シャムの貴公子』と呼ばれていた『ポーン・キングピッチ』への挑戦が叶い、蔵前国技館でおこなわれた試合で、原田さんは王座を奪取することに成功する。最年少記録には届かなかったのものの、僅か19歳での世界王者として君臨することに成功するのだった。しかし3ヵ月後に行なわれた再戦ではきわどい判定の末王者を陥落することになってしまい、この敗北を気に原田さんはバンダム級への転向を決めた。

『ロープの魔術師』との死闘

バンダム級に転向した原田さんは1963年9月26日、『ロープの魔術師』の異名を持つ強豪で、世界バンダム級3位・ジョー・メデル氏と対戦することになり、一度は完膚なきまでのKO負けに屈してしまうも、1年後に開かれた東洋王者・『青木勝利』に勝利したことにより、バンダム級世界王座への挑戦権を掴むことには成功した。

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『黄金のバンダム』に挑戦

世界バンダム級王者の『エデル・ジョフレ』は『ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)』の異名を持っており、またその通り名にふさわしい実力を備えた実力者でもあった。原田も彼とは一度対戦したことがあるものの、その時は敗北を喫することになった。そして彼は原田が負けたメデルにも勝利していることで、彼の強さがどれほどのものなのかを示している。そのため、原田の勝利を期待する声は非常に少なく、彼が一体エデルの攻撃にどれだけ耐えられるのか、というような悲観的なまでの内容でしか扱われなかった。

そして戦いの火花が機って落とされる1965年5月18日、愛知県体育館で原田とエデルの試合の幕が下ろされた。この時原田は今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出ていた。勝てない博打と思われたが、幸運の女神は原田に微笑みかけるのであった。

試合結果としては一進一退の展開だったものの、判定結果として原田はエデルに無事勝利し、世界バンダム級チャンピオンとしてその地位を手に入れることになった。その後再戦を迎えることになった二人だが、二度目の戦いにおいては原田の圧倒的な大差をつけの勝利だったことで、二人の勝負に完全に幕引きが卸された瞬間でもあった。

幻の3階級制覇

1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメションへの挑戦が決まった。王者の地元シドニーでの敵地開催。原田の圧倒的不利は否めない状況だったが、原田はこの試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。中でも14Rに奪ったダウンは強烈で、このダウンで王者のファメションは半ば失神状態に陥っていた。誰の目からも10カウント以内に立ち上がれそうにないことは明白だったが、この試合のレフェリーを務めていた元世界フェザー級王者のウィリー・ペップは、あろうことかカウントを途中で放棄すると失神していたファメションを無理やり立たせ試合再開を促したのだった。続く15Rを王者は必死の防戦で逃げ切り勝敗は判定にもつれ込まれた。それでも3度のダウンを奪った原田の勝利は揺るぎないものと思われたが、ここでもレフェリーを務めたペップは判定の結果が出る前に両者の腕を上げた。つまり、「引き分け」で王者の防衛ということだった。この結果に、地元でありながら王者とペップにはブーイングの嵐が起こる。逆に判定に不服を申し立てることも無く、潔く健闘を称えあった原田には惜しみないスタンディング・オベーションが贈られるという始末だった。しかし、これだけでは終わらなかった。レフェリーのペップは「引き分け」という判定を下したが、この時の試合のジャッジもペップ自身が一人で務めておりしかもスコアシートを採点した結果、なんと「原田の判定負け」という結果だったのだ。当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたことから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。翌年、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京にて再戦を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。

引退後

ボクサー引退後はテレビなどの出演の大忙しとなり、時にはドラマ出演も果たし、そしてボクシングジムの会長選への出馬などの行動も見られた。

2005年に『高血圧性脳内出血』で倒れ、手術を受けることになるが、その後は無事に回復に至り、2006年3月25日に開催されたWBCバンダム級タイトルマッチ長谷川穂積VSウィラポン・ナコンルアンプロモーション戦のテレビ中継の解説者として、元気な姿を披露するのであった。

その後日本プロボクシング協会会長に就任、その後引退して協会顧問として就任、さらには世界チャンピオン経験者によって発足されたプロボクシング・世界チャンピオン界では最高顧問に就任するなど、現在でもプロボクシング界においては多大な影響を与え続けている。

主な戦績

1960年2月21日 
4回TKO勝ちでプロデビュー。デビュー時の階級はフライ級であり、東日本新人王戦を順調に勝ち上がったが、準決勝において、同門でかつ親友でもある斎藤清作と当たることになってしまった。結局、斎藤が「負傷」と言うことで出場を辞退した。後に、「たこ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続き、死の直前にも電話を受けた。
1960年12月24日 
東日本新人王決勝戦。やはりKOパンチャーとして売出し中の海老原博幸(金平)と対戦。序盤は原田のラッシュに、海老原が2度のダウンを喫したが、終盤には、海老原が後に『カミソリ・パンチ』と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き6回判定勝ち。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
1962年5月3日 
ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成。海老原博幸、青木勝利とともに次代のホープとして『フライ級三羽烏』と称された。
1962年10月10日 
世界フライ級王座に初挑戦。ポーン・キングピッチ(タイ)を11回2分50秒KOで破り、19歳で世界王座を獲得した。
1963年1月12日 
ポーンとの再戦に判定で敗れ王座陥落、バンタム級に転向。
1963年9月26日 
ノンタイトル10回戦で世界3位の強豪・ジョー・メデル(メキシコ)に6回TKO負け。
1964年10月29日 
ノンタイトル10回戦で東洋王者・青木勝利に3回KO勝ちし、世界再挑戦への道を開く。
1965年5月18日 
世界バンタム級王座に挑戦。「黄金のバンタム」エデル・ジョフレ(ブラジル)に15回判定勝ちし、王座奪取。
1965年7月28日 
世界タイトル獲得後の最初の試合。世界バンタム級8位斎藤勝男(暁)とのノンタイトル戦で12回判定勝ち。原田は減量苦で動きが鈍く、スピーディな斎藤に苦戦し、11回を終えたところでほぼポイントは互角。しかし、最終12回にロープ際に後退しながら右アッパーをカウンターしてダウンを奪い、そのポイントがモノを言った。
1965年11月30日 
初防衛戦。リヴァプール出身のアラン・ラドキン(イギリス)を15回判定で破る。
1966年5月31日 
2度目の防衛戦。前王者ジョフレを15回判定で下し防衛成功。
1967年1月3日 
3度目の防衛戦。かつてKO負けしたジョー・メデルとの再戦となるこの試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15回、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座防衛。
1967年7月4日 
4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。
1968年2月27日 
5度目の防衛戦。ライオネル・ローズ(オーストラリア)に15回判定負けし王座陥落。バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めており、以降フェザー級に転向。
1969年7月28日 
WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。王者・ジョニー・ファメション(オーストラリア)から3度ダウンを奪ったにもかかわらず15回判定負け。リングサイドで観戦していたライオネル・ローズも認める露骨な地元判定であった。
1970年1月6日 
東京体育館にてファメションに再挑戦するが14回1分9秒KO負け。この試合を最後に引退した。

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